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【 Snow flakes : 4 】
まだ高い陽のひかりがイチョウ並木の淡い緑の天井に透けて、通りの石畳を染め上げた。古びた坂の両隣には、やはり懐かしい風合いのレンガのビルがずらりと並ぶ。道を往く人々は人種も老若男女もさまざまだった。後部座席の窓越しに流れる街並みに、美鶴は、ずっと昔に行った横浜の有名な倉庫を重ねた。妹が生まれる前のことだ。うっかり細かに思い出しそうになったので、そこでそれ以上を考える事を打ち切った。高くさえずる鳥の声に耳をすまして、あれは何の鳥だろう、と当たり障りのない疑問に意識を集中させることにした。
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細い坂の途中で車が停まった。
「美鶴くん、着いたよ」
伯父は運転手に二言三言、かろうじて聞き取れた単語によればおそらく荷物についての指示を出し、車を降りた。美鶴も黒いリュックをいそいで背負ってそれに続いた。目の前に建つのは、周囲とまるきりおなじ赤茶のレンガのビルだった。ステップを数段上がった所に黒っぽい鉄の扉がぽつんとあって、クラシカルな筆記体で控えめに番地の数字が示されていた。玄関ならば随分とそっけない。よく見れば扉の右手、伯父の腰より少し高いくらいの位置にセラミックの小さな台があった。台の上には電卓状のキーと銀のパネル。伯父は慣れた手つきでキーを打ち、パネルに手のひらをかざした。ガシャン、と乱暴な音を立てて鉄の扉がひらかれた。
「入りなさい」
伯父に促されて入った場所は象牙いろの小さなエントランスで、今度は装飾されたぶあついガラスの扉が待っていた。荷物を運ばせた運転手に伯父はチップを手渡し、いま入ってきた鉄の扉を丁寧な手つきで閉めた。ガシャン、また大きな金属音が鳴り響く。耳障りなそれに、美鶴は眉をしかめた。
「ここはね、三重セキュリティを導入しているんだ。静脈と声紋と虹彩の三つが揃わないと、ドアは開かない」
伯父の声が閉ざされた部屋に反響する。
「早めに美鶴くんもデータを入れてもらおう、でないと」
部屋からも出られない、と呟いて二度目の認証作業を済ませればそれは難なく成功し、電子音と共にドアが開いた。背をそっと押されて、更に奥へ。どんどん奥へと導かれながら、
(ここには何ヶ月、いられるだろう)
いつもの不安が胸を掠めた。
ひらかれたホールは随分と瀟洒な空間だった。四階分をつらぬく吹き抜けの天窓から階段の手すりの装飾まで、あらゆるパーツが様式美にこだわり抜かれ、子どもの目にもわかるほど、繊細でうつくしかった。何事にも無感動な美鶴でさえ、一瞬、心が動いた。入ってすぐのフロントに控えていた白髪混じりのコンシェルジュが伯父に気づいて、にこやかに挨拶をした。流暢な英語で伯父がそれに返す。男は、伯父の傍らにぽつんと立つ美鶴の姿を認めると、ぱっと満面の笑顔を浮かべて、こちらにも挨拶を送ってきた。不意に向けられた強い好意に、美鶴が動揺してわずかに後ずさった。その背中が伯父の手で止められる。
「美鶴くん、だめだよ。ちゃんと挨拶して」
背中に添えられた手の主の声は、穏やかだけれども強かった。自分が失礼をはたらいたことに気づいた美鶴は慌てて口を開いたが、しどろもどろでナイス・トゥ・ミートゥ、と拙い単語を口にするのがやっとだった。
(何だそれ)
かぁっと顔があつくなる。伯父の前で無様な姿を見せた自分を、彼のように風景に溶け込めない未熟な自分を、美鶴は恥じた。しかし白髪混じりの男は嬉しそうに頷いて、出来るだけゆっくりと、聞き取りやすいアクセントをつけて、ようこそ何とかヒルへ、ミスタ・アシカワ・ジュニア、よい1日を、とふたたび美鶴に微笑んだ。慣れないやり取りがくすぐったい。それでも美鶴は何とか口端を持ち上げて、控えめな笑顔のかたちをつくろうと試みた。
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部屋は三階だと伯父は言ったが、映画で見たような鉄とガラスで出来たクラシカルなエレベーターに、当の本人は乗ろうとしなかった。相変わらず美鶴には目線もやらずに、ついておいでと短く言葉をかけて、アタッシュケースと僅かな荷物を手に、おおきく螺旋を描く階段へとさっさと向かった。美鶴は早足で後を追わなければならなかった。
適度にふかふかした紅茶色の絨毯敷きのステップを、ゆったりとした歩調で伯父はのぼった。しゃんとした真っ直ぐな背中を見上げながら、何故便利なものを使わないのかと訊ねると、珍しく伯父が立ち止まって自分のほうを振り返ったので、なるほどこれは伯父の気に入る話題だったのだと、美鶴はすかさず学習した。
「この階段が好きなんだ、手すりの装飾が気に入っているんだよ」
伯父はそう言って、大胆な曲線を描く飴色の手摺を撫でた。とても驚いた。
最初の日から三日間、美鶴は新しい保護者の一挙一動を注意深く観察し続けて、伯父という人を知ろうとした。伯父は
『物腰は穏やかで人当たりもいい。一方で徹底して無駄と無能を嫌い、胸を抉るほどに正直で率直な人物だ』
と、彼は認識していた。手摺の装飾がどうこう、と情緒的なことを言い出すようには見えなかった。もう少し美鶴が大きければ、それらは同じ美意識という範疇にカテゴライズされるものだと理解できたかもしれない。だがとにかく、現時点で伯父は不可解そのものだった。しかしその理解しがたい人物こそが自分の命運を握っている、帰るところのない自分を生かすも殺すも、伯父次第なのだ。ゆえに美鶴は必死に考えた。不興を買いたくない、失敗したくない、落胆させたくない、嫌われたくない。
(気に入られたい)
(やさしく、されたい)
『君に来て欲しい』。伯父は確かにそう、言った。「面倒を見てやる」とも「仕方ない」とも「感謝しろ」とも言わなかった。美鶴の目を見て、やさしく笑って『おいで』と言ってくれた。それだけのことが大きな意味を持つ。孤独の淵に沈んだ2年、拒絶と悪意に晒され続けた幼いこころは、澱みに満ちた。その澱みの底から、どうしても切り捨てることの出来なかった弱々しい望みがゆっくりと目を覚まし、ちいさくちいさく呼吸をはじめるのを感じた。何かを望むのはおそろしい。それが大きなものなら尚更だ。伯父を信用しているわけじゃない。ここにだって、いつまで居られるかわからない。それでも、
「美鶴くん、おいで」
切なる望みが階段の踊り場で振り返り、ほほえんだ。
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まるまる蛇足部分でしたすみません。つづきます。