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【 轍 】
美鶴と叔母さん。(※伯父ミツ前提)
ルルル、と軽やかに部屋の電話が鳴った。
テレビではこれから彼女のお気に入りの俳優が、ドラマの中で三角関係を暴露されるところで、つまり 、今週いちばんの見せ場だった。何よもう!と形のよい眉をしかめた彼女が白いソファから立ち上がる。せっかくいい所なのに。大体誰よ。友達だったら携帯にしかかけてこない。会社の子かしら。もし勧誘だったら怒鳴ってやる!つかつかと電話の置かれたチェストに歩み寄って、いささか乱暴に受話器を取った。
「はい」
ぞんざいに受話器を置いたとき、ひやっと冷気が流れ込んできたので、廊下に続くドアが開いていることに気がついた。ノブを握り締めたままそこに立ちすくむ、ほっそりとした小さな人影にも。
「何よ」
いらつく気持ちを隠そうともせずに、それに声をかける。いま、自分はとてもみにくい顔をしているのだろう。
「ドアをちゃんと閉めて。まだ3月なのよ。寒いわ」
叱られた子どもは表情こそ変えなかったが、かすかに身じろぎした。あぁ、また嫌われる。
「…電話、が」
よく通るきれいな声が、ちいさくちいさく、ぽつりと答えた。彼女と目を合わせまいとするように、どんどん伏せられてゆく大きな黒い目のなかに強い緊張が見てとれて、それにまた彼女はいらついた。
「ただのセールスよ。いいから、早く寝なさい、なかなか寝れないんでしょう」
精一杯の平坦な口調で告げると、子どもは慌ててこくりと頷き、すみませんでしたお休みなさい、と言い残していそいでドアを閉めた。ややあって今度は、彼が自分の部屋にしている納戸のドアが閉じら れる音がする。それを聞き届けてようやく、彼女はため息をひとつ吐き出し、その場にしゃがみこんだ 。ひどく、やるせない気分だった。
(待っているんだわ)
ここに自分を捨てて行った人物からの電話を。
(かかってくるわけないじゃない)
もとより着信は拒否に設定してあるが、仮にかかってきたとしても絶対に繋げるものかと彼女は誓っていた。その意志は強固だった。あの子が、あの男の声を聞いてよろこぶ姿なんて見たくない。鈍色の瞳は歓喜のなみだを浮かべるだろう、人形のおももちは花のように綻ぶだろう。あいしていると囁かれれば、恨み言を飲み込んですべてを赦してしまうのだろう。それが哀れで、腹立たしい。
『美鶴はとても難しい子だから、君の手には負えないよ』
まぁ頑張ってみるといい、とひとかけらの呵責もなく微笑んだ男を思い出す。その言葉はたしかに真実だった。子どもの心はおそろしいほど頑なで繊細だった。ちいさなひらたい胸の中は、辛い過去とあの男に完全に占められていて、他のものが入り込む隙間はどこにもないように思われた。彼女のつたない愛情すらも。
優しくしようとすれば顔を背けて俯いた。抱きしめれば身体を強張らせて耐えていた。子どもが彼女と、それに付随する新しい環境を認めようとせず、「違う。ここじゃない。お前じゃない」と身体の細胞ぜんぶで拒絶している様は、見るからに痛々しかった。愛そうとすればするほど、彼女は逆に手ひどく傷つけられた。子どもは子どもで、自分という存在が彼女を不幸にしているのだとよく理解していた。じぶんの望みが、抱く気持ちが叔母を苦しめるだけだと悟ってからは、ぴたりと伯父について口にするのをやめた。電話には近寄らなくなった。気持ちはどんどん塞いでいって、悪循環は深まってゆく。家の中は黒い水で満たされたようだった。つめたく、重く、息ができない。
「私にどうしろっていうのよ」
またため息がもれて、ぽたり、雫がひとつ、彼女の細い膝におちた。今ならスクリーンの向こうの痴話 喧嘩が、嗚咽をかき消してくれる。そう思って彼女は泣いた。暗い水の底に沈んだ3月。彼を屋上へと甘く誘うあのドアも、彼が願いを胸に旅立つことになるその扉も、まだ何ひとつひらかれてはいなかった。
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叔母さんは美鶴がたらい回しで受けてきた虐待を知っていて、
また伯父さんと美鶴の不適切な関係にも、多少気づいています。