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【 その胸の内に宿る 】
巡り来る長い夜を、あたたかい闇に抱かれて眠った。
極上の陶器のようにつるりと光る漆黒の肌に、子どもの小さなてのひらが触れた。しっとりと人肌を思わせる水気と、人よりも獣のそれを思わせる、皮膚の下の確かな熱。かたい忠誠を誓わせてもなお警戒心を捨てきれない、鋭利な鉤爪がきらりと光り、子供の恐れるものによく似た鮮やかな真紅の双眸が、細くあやしく弧を描く。そのままそっと寄り添えば、深い森の苔むした地面に似た湿った匂いが鼻をかすめる。子どもは黙って目を閉じ、胎児のように手足をたたんで、小さなからだを闇色の胸にすべて預けた。鼓動を刻まない静かな胸に抱きとめられると、いっそう強い緑の匂いがした。不思議と心がおちついた。
バルバローネという優雅な名を持つその闇は、魂を喰らう化け物だった。闇は、ひろく尖った翼をたたんで子どもを包み、すこしづつ輪郭を歪めゆるやかに縮んで、やがて彼とそう変わらない大きさになった。
『ミツル』
バルバローネは慈しみを込めてその名前を呼ぶ。ぎりぎりと音のしそうな鈍い動きで美鶴の身体に腕をまわし、そうっとそうっと抱きしめると、美鶴は黙って、緑の匂いの立ち上る彼女のあたたかな胸に顔を埋めた。彼女は歓喜した。
『ミツル、ミツル』
鉤爪の三本指で彼を傷つけないように細心の注意をもって、胸の中に埋もれたサラサラした髪を撫ぜると、美鶴は最初こそ僅かに緊張を見せ肩を強張らせたが、徐々にその力は解かれて、ことり、まるい頭が力なく預けられた。指の隙間を水のように抵抗なく落ちてゆく、絹糸の髪。なんて美しいのだろう、なんて愛しいのだろうと、彼女はまた喜びにふるえた。
『ミツルは・いいこ・ね』
彼女自身は知らない女の声が、彼女の声帯から紡ぎ出された。その声色を使えば頑ななはずの子どもの魂が容易く色を変えることを、彼女は経験から知っている。藍鼠から藤紫、珊瑚、白緑、若葉色、瞬間の黒から赤錆色へとめまぐるしく。そんなことが彼女にはたいそう不思議で、興味をひいた。
『きょうは・なんのほんを・よむ?ミツル』
彼女が今までに味わったどの魂よりも、胸に抱いた子どものそれは清らかで、傷んで捩れて絶望に満ちていた。心にもぐれば望む言葉は読み解けた。拾い集めた記憶に沈むきれいな切片を声にして、偽りの声で、彼女はもう幾度も彼を慰めた。
『ミツル・は、とっても、やさしいのね』
『ミツルも・アヤちゃんも、だいすきよ』
『だいすきよ、ミツル』
『ミツルのことが、だいすきよ』
『オカアサント、いっしょにキテ、くれるヨネ』
まどろんでいた筈の愛し子が、弾かれたようにぱっと顔を上げた。目をわなわなと見開いて、血の気の失せた顔にふるえる声で何か、彼女には理解できない言葉を口早に唱える。彼女は首をかしげた
『ミツル?』
「消えろ!」
『ドウシタの、みつる』
「消えろ!!バニシュ!!」
瞬間、影の女はかたちを失い、美鶴の影に吸い込まれてあとかたもなく消え去った。後にはただ、つめたい夜が残された。女が消えても美鶴は長いこと、魔導の杖を握り締めたままだった。
「…あと、ひとつ」
白い頬を濡らした涙を拭い、濡れた目には強い意志を宿らせて、魔導の杖を握り締めて己の望みを胸の内で反復する。
「大丈夫だ…まだ、大丈夫だ…」
おれは、願いを叶えるためだったら、何でもできるんだ。あのお人よしにもわざわざ伝えた、何故ならあれは自分への戒めだった。闇がじぶんを覆い尽くす前に、すりきれた正気を喰われる前に、なくしたものを取り返す。必要な宝玉はあと一つ。なのに運命の塔は、いまだ遥かに思われた。
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幻界でのミツル。