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【 動物園 】
(スノウフレークス2の伯父視点。本編読まないと意味不明かも)
彼は朝から憂鬱だった。ここ1週間はずっと気分が優れなかった。理由はひとつ、興味のない難題を抱えているからだ。しかしどれほど彼がむくれても、体内時計は一寸の狂いも見せず、今朝もきっかり午前5時、いつも通りに彼を起こした。
シャワーを浴びて濡れた髪をそのままにデスクに向かい、読みかけの論文をひらく。非フォン・ノイマンコンピュータについての最新の理論は、十分に彼の興味を引くものだった。いまだ衰えを感じさせない大脳新皮質は、すぐさま先刻までの杞憂を忘れ、新たな知識という情報を貪欲に取り込むことに集中した。つまり彼は、非常にタフな部類の人間だった。
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『お願いします、兄さんしか頼れる人がいないんです、私たちじゃ駄目なんです、あれに殺されるわ!』
受話器の向こうでキィキィと悲鳴を上げる妹に、心を動かされたわけじゃない。無関心の対象へと寄せられる、安い憐憫など彼は持ち合わせていない。子どもを然るべき施設に入れればいいと答えたら、
『そんな世間体の悪い、それにあれに恨まれでもしたら、だって親が人殺しなのよ恐ろしい!』
また女はキィキィ喚いた。
(サルみたいだなあ)
赤い顔をした生き物が、興奮して歯をむき出し相手を威嚇するイメージを思い浮かべた。自分の群れを守ろうと、哀れなメスザルは必死だ。彼は動物好きだったので、そんな妹が微笑ましくて笑顔になった。もちろん受話器の向こう、海の向こうの相手は、彼の笑みなど見る術もない。
『兄さん、聞いてます?』
「あぁごめん、聞いてるよ。そうか、大変そうだね。何とかしてやりたいけれど、僕は独身だし、これでも結構忙しいんだ。だから断る。施設に入れるのが合理的だ、そうしなさい。頭がおかしい人間が入るための施設だって、きっとどこかにあるだろう」
サルにも分かるように、なるべく平凡な単語を並べて丁寧に答えると、電話の相手が絶句した。
『でも…なんだか、後味も悪いし。兄さん、お願いだから会うだけ会ってみて。それで気に入らなかったらその、どこかに入れてしまっていいから。私たちじゃちょっと…』
なんて無能なサルだろう。彼はため息を一つついた。
「わかった、僕がやろう。来週、東京に出張があるからその時にその子をこちらに寄越しなさい。受け入れ先もこちらで探す。恨まれたとしても、僕はすぐアメリカに戻ってしまうから平気だろう。詳しいことは後でまた連絡するよ」
わかったと答えたのは、さっさと電話を切り上げて手元の本を読みたかったからだ、それだけだった。自分が引導を渡せばまるくおさまるのだ。興味のない事に時間を費やすのはひどい苦痛だけれど、すこしの辛抱だ。善行は美徳だ、美しいことはいいことだ。彼はすぐさま、東京の知人へ電話をかけた。もちろん、子どもの然るべき預け先を確保するためだ。引き取りの予定はない。
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人の行き交うホテルのロビーを見回すと、隅っこのソファにひっそりと埋もれるように、手荷物を胸に抱えて痩せた子どもが座っていた。背中をまるめて視線は床に。重厚なロビーに相応しくない、古く汚れた運動靴のつま先をすり合わせている様子は、ひどく惨めに見えた。妹から電話で聞かされた『凶暴で陰険で鬱病で死にたがりの、どうしようもない問題児』にしては、全然アクが足りていないと彼は思った。ヒグマみたいな子供なら面白かったのに。ロビーでぎゃあぎゃあ暴れて、ホテルマンをなぎ倒し、コンシェルジュに噛み付いて、その途端に鬱病の発作が出て死にたがるんだ、ぼくはなんてわるいクマなんだジーザス!それくらい滑稽だったら、面白かったのに。
革張りのソファで所在無く、ちいさく固まるその子供は何だかとてもみすぼらしかった。生きているんだか、死んでいるんだか、わからないくらい生気が淡い。あぁ全然面白くない。ふわふわした薄茶の髪は毛先の長さが不揃いで、だいぶ伸びて顔を隠している。手入れが悪い。それに着ているものだって薄汚れてる、触らないよう気をつけよう。
ため息をひとつついてから、さて。
「失礼。芦川、美鶴くん?」
気乗りしないまま、それでもなるべく穏やかにそれに声をかける。彼はただ終わらせるためだけに、俯く子どもの名を呼んだ。そこからはじまる。
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CLAPの隠しお礼でした。