【 Snow flakes : 2 】
9才の誕生日が迫っていた、夏のはじめ。美鶴はたらい回しの四軒目で大失態をやらかし、一家から不興を買って、あとはただ追い出される時を待っていた。お前なんかと口をきくのも汚らわしい、と全身で語る伯母からその日、起きぬけに手荷物の入ったリュックと1枚のメモを手渡され、そこに書いてある場所に時間通りに行きなさい、とだけ告げられた。渡されたお金は、ちょうど片道分の電車代。それで通じた。お世話になりましたと頭を下げて、何の感慨もなく彼は仮の住まいを後にした。
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電車を乗り継いでやって来たそこは、都心の大きなホテルだった。スーツ姿のビジネスマンや、これから観劇にでも行くのだろう華やかな服装の老若男女が行き来するロビーで、Tシャツにサッカー地の長袖のシャツを羽織った、くたびれたジーンズに同じ位ボロいスニーカーという格好の子どもは完全に浮いていた。美鶴は邪魔にならないようにとなるべく隅にあるソファに座り、黒いリュックを胸に抱えてじっとして、床から浮いた爪先を持て余していた。そういえばメモには、待ち合わせの時間と場所しか書いていなかった。要件はわかっていたから、聞く必要もないと思っていたのだけれど、名前くらい聞いておけばよかった、ほんのすこしだけ不安を覚えて背中をまるめた時、ロビーの大時計が古式ゆかしい音色で12時を告げた。あぁ時間だ。ぎゅっとリュックを抱きしめた。
足音がしなかったので、気づかなかった。つやつやした飴色の革靴の爪先が、俯いた視界の隅に入った。
「失礼。芦川、美鶴くん?」
静かだけれどよく通る、きれいなテノールの声が頭上から落とされた。ついと顔を上げた美鶴は次の瞬間、思わず悲鳴を上げそうなほど驚いた。どうにかそれをこらえ、まじまじと眼前の人物の顔を見つめる。年の頃は30代後半から40くらいの、でも妙に雰囲気のある男だった。すっきりしたラインの淡い色のスーツは、長身に嫌味なく似合っていた。
「あぁ、美鶴くんだね。よかった。はじめまして」
にこり、男が微笑んだ。美鶴の唇がわなわなと震えた。目をまるくして何も答えない美鶴を訝しく思ったのか、男がすこし屈んで、どうしたんだい、大丈夫?と気遣うように尋ねた。そのさりげない仕草も、心地よい声も、夜を溶かしたような目の色も、何もかもが美鶴のからだの深いところを煮え立たせた。両手でジーンズ越しの膝小僧をがっちり掴んで、震えるからだを叱咤して、美鶴がようやく呟いた言葉は、泣き出す一歩手前みたいにか細かった。
「お父さん」
悪い冗談みたいに男の姿は父に酷似していた。嫌なことに声までがそっくりだった。突然お父さんと呼ばれて、父もどきはすこし目を見開いて驚いたが、
「違うよ」
と、そっけないほど簡単な返事をくれた。それに美鶴は心底ほっとして、その反面で同じくらい落胆した。なんだ人違いか、残念だ。本物だったら。父だったら、今この場で飛び起きて首をしめてやったのに。残念だ。とても残念だ。
「ごめんね」
何故か男は謝った。何を、と聞き返すのは野暮な気がして、美鶴はただ首をふった。
「私は、君のお父さんのすぐ上の兄なんだ。君にとっては伯父にあたる。
妹夫婦から説明は受けていないんだね?」
こくりと頷くと、なるほどそれじゃ昼食をとりながら話そうかと促され、ホテルのレストランでいいかい、と言われた。反対する理由もないので、これにもすなおに頷いた。
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すこし気持ちが静まると、今度は相手が気になって仕方なくなった。なのに肝心の相手はクールもいい所で、傍らの子どもなどまるでいないかのように寡黙だった。美鶴は自分よりもずいぶん高い位置にある横顔をちらちらと見上げては、胸がもやもやしてくるしくなって俯いてを繰り返した挙句、おそるおそる話しかけた。
「お会いするのは初めてですか」
エレベーターを待つ間だった。隣に立つ伯父になったばかりの男は、一目だけ美鶴を見下ろして、表情も変えずにさらさらと答えた。
「うん。私は、君のお父さんに嫌われていてね。縁を切られているんだ。だから君に会うのも初めてだし、君の家族の葬儀にも来られなかった」
「そう、ですか」
淡々とすごい事を言う。今まで出遭ったことのないタイプだ。縁を切られたくらいだから、やっぱり少々変わっているんだろうかと、美鶴はひとりで納得した。外見はともかく、中身が全然似ていない。そこに皮肉にも救われる。
「仕事の関係でほとんどアメリカにいるから、芦川の家とも疎遠でね。1週間前にいきなり妹から、2年ぶりの電話がかかってきて、何かと思ったら君を預かってほしいと言われた。びっくりしたよ」
ほんの少しだけ、それを楽しんでいるような声色が窺えて、美鶴は複雑な気持ちになった。まぁ予想通りだ。あの家では最初から煙たがられていた。それで5ヶ月半。よくもったほうだ。
「それで、今度は伯父さんが僕の身元引受人になるんですか」
「いや、まだ承諾した訳ではないよ」
心の中で小さくため息をついた。いかにも自分に相応しい、行き当たりばったりなずさんな処遇だ。
「あぁ、誤解しないでほしい。美鶴くんのことが問題な訳じゃない。ただ私は二度結婚に失敗しているし、仕事も忙しいし、君にとってあまり良い環境じゃないと思うんだ」
これ以上悪いことなんてあるのかな、と美鶴は思ったが、口には出さない。余計なことはしないに限る。
「それに、君の自殺未遂は3回目だそうだね」
何の抑揚もなく聞かれて一瞬、ぞくりとした。この人は本当に率直だ。だから美鶴も同じように返した。
「はい」
「都市ガスで死ぬのは難しいよ」
全部聞いているんだ、美鶴は両手を握り締めて、こころもち俯いた。
「もう、しないと思います」
伯父は表情を変えることもなく、それがいい、とだけ言った。
チン、と鐘の音を立てて、エレベーターが着いた。
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昼食はお世辞にも和やかとは言えなかった。少なくとも、30分前に初めて出会った伯父と甥が遠慮がちに、けれど親しみをもって食事を楽しんでいる様には、誰の目にも見えなかった。それは単なる面接だった。伯父は次々と美鶴に質問を浴びせた。「学校の成績は?」にはじまり、英語力の程度、得意な教科に苦手な教科、身長体重、今までにかかった大きな病気と怪我、持病やアレルギーの有無、関心事、趣味。あれこれと矢継ぎ早に聞かれ、美鶴は戸惑った。戸惑ったが顔には出さず、的確に答えを返した。伯父は美鶴の利発な受け答えに満足した様子で、
「君は興味深いね。聞いていたのと随分、印象が違う」
伏目がちに微笑んで、ゆっくりと食後のコーヒーを口に運んだ。何でもない動作が様になる。美鶴は優雅さとはこういうものなのか、と感心しながら、無意識に伯父の仕草を記憶した。
「電話では、凶暴で陰険で鬱病で死にたがりの、どうしようもない問題児を預かってくれと言われたんだ。だから一度は断った。そうしたら今度は、気に入らなかったから施設に入れてしまって構わないから、とにかく会ってみてくれと言ってきた。芦川の人間は皆、自分の手を汚すのは嫌らしい。でも君が、予想を裏切ってくれて嬉しいよ」
明るい口調には何の含みもなく、それゆえに美鶴は胸を抉られる思いだった。大丈夫、こんな事くらいで傷ついたりしない、と自分に言い聞かせ、精一杯の平静な態度で伯父のことばに応える。
「伯母さんにとっては、そうだったんだと思います。僕は向こうで沢山の迷惑をかけました。申し訳なかったと思っています」
「定型文だね」
また何か鋭いものがが美鶴の胸を僅かにかすって斬りつけたが、本当のことなので放っておいた。
「さて、美鶴くん」
テーブルの上で手を組んで、すこし前かがみになって話しかける伯父の目に、楽しい悪企みを持ちかけるような色が浮かんだ。
「どうしようか。私は君を迎え入れるのは構わない。むしろ君に来て欲しい。けれど、さっきも言ったように私は独り者だ。家庭生活を二回投げ出している。子どもの相手をした事がない。家の近所には君が通える日本人学校はない。それに私は仕事が忙しくて、君にあまり構ってはいられない。努力はするけれど、ずいぶんと寂しい暮らしになると思う」
願ったりだ、と美鶴は思った。肉親の情など端から求めちゃいない。どんなに寂しくても、静かな環境があればそれでいい。何より伯父はとても裕福そうで、自分が居候したところで懐はびくともしないだろう。それだけでも随分ましだ。この好機を逃してたまるかと、美鶴は正面から伯父を見据えて、強い口調で伝えた。
「伯母さんのところには帰れません。帰ってきて欲しくないから、片道ぶんの交通費しか渡されなかったんだと思います。お願いします、伯父さんのところに、置いてください」
ちいさな子どもの必死の表情を、確かめるようにじっと見つめてから、伯父は口元を綻ばせておもむろに頷いた。
「うん、おいで」
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