【 Snow flakes : 3 】
多少いかがわしいのでご注意ください。
「フライトは明日の夕方だから、今晩はこのままここに泊まりなさい」
伯父はエキストラベッドを入れるのも面倒だから、とツインの部屋へ移ったのち、
「私は色々とすることがあるから、美鶴くんも好きにしておいで」
と美鶴に告げてそれっきり、本当に一瞥もくれなかった。どこかへ電話をかけて飛行機の席をおさえ、民法上の手続きがどうこうだから何々の書類を回してくれとか、保険はどうこうだとか、とにかく美鶴には難解な会話を携帯のむこうの誰かと交わし、てきぱき一分の無駄もない働きを見せた。
好きにしろと言われても、暇をつぶす本もない。テレビをつけたら伯父の邪魔になる。部屋の外に行っていいものかどうか、自分には判断がつかない。仕方なく、窓際のいすに座って外の景色を見ていることにした。それほど低くもない位置に皇居の緑が見下ろせる場所に、美鶴は何十分も黙って座っていた。心に不満は微塵もなかった。伯父と暮らすということは、つまりこういう事なのだろうと彼はすぐに理解していた。放っておかれてだいぶ時間がたってから、ふいに伯父が顔を上げた。窓の向こうをぼんやり見つめている甥の姿をようやく目に留めて、
「することがないのなら、シャワーを浴びておいで。脱いだものは、備え付けのクリーニングバッグへ入れて。棚にバスローブがあるから、大きいだろうけれど、とりあえずそれを着ておきなさい」
それだけ早口で言って、くるりと美鶴に背を向けて机に向かった。ノートパソコンの起動音がした。はい、という美鶴の返事は、どうでもいい様子だった。
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昼間からお風呂に入るのは、何か特別なことをしている気がする。誰にも咎められることなくたっぷりとお湯をつかって、朝からずっとはりついてきた汗と緊張を洗い流した。大きすぎるバスローブでほかほかに温まったからだをどうにか包み、浴室と寝室を隔てるドアを開けると、ひやり頬にふれる冷房が気持ちよかった。伯父は仕事を済ませたらしく、スーツの上を脱いだワイシャツ姿で、先ほど美鶴が座っていた窓際のいすに腰掛けて新聞を読んでいたが、美鶴を見て、ついと隣のベッドを指差した。
「ここへ」
言われるままにそこへ腰掛けると、伯父がおもむろに立ち上がり、そのまま椅子と美鶴の間に立った。見上げた伯父の背後に、大きな窓とそのむこうの雲ひとつない夏空がひろがって、あぁ綺麗だなと美鶴はおもった。しかし伯父から発せられた台詞が、ささやかなロマンチシズムをあっさり破りすてた。
「検分をさせてもらうよ」
抑揚のない静かな声がそれを告げた。
「けんぶん?」
聞きなれない単語だった。
「そう。それを脱いで、はだかになって」
事も無げに指示されて美鶴は僅かに躊躇したが、抵抗してはいけないよと囁く、身に染み付いた処世術が先に立った。羽織っていただけのバスローブを肩から落とすと、痣だらけの肌と、あばらと腰骨が浮いた痩せぎすのからだが晒された。まだらの峡谷のようなそれを見て、伯父があからさまに眉をひそめた。
「酷いものだね」
落とされたのは心配や哀れみとは違う、落胆したような声だった。屈みこんで間近でそれを見つめる相手に、どう答えたらいいのか分からなくて、押し黙る。
「ここは?」
わき腹から胸にかけて、大きく青黒い箇所がある。伯父の指がなぞったそこに、ずきり、生々しい痛みが走った。ガスをひねった日に滅茶苦茶に殴られ、蹴られた痕だ。
「階段から、おちて」
伯母にそう言えといわれた回答がすらすらと口をついて出てきたが、もとよりそんな分かりやすい偽りが伯父に通じることもないと、美鶴はわかっていた。わかっていたけれど。
「嘘はいけない。服で隠れる場所ばかり、ずいぶん殴られたようだね。出発前に一度病院で診てもらった方がいい」
「ごめんなさい」
「君が謝ることではないよ。自分に非がない事で簡単に謝罪するのは良くない。そういう卑屈な態度は感心しない」
わずかに怒りに似た感情を含んだひややかな目が向けられて、
(失敗した。たたかれる)
咄嗟に感じて、美鶴は反射的に目を閉じ、からだをかたくして身構えた。でも、予想していたものは何も来なかった。おそるおそる閉じていた目を開けると、伯父の黒い瞳が食い入るように自分を見ていた。
「たたかれると思ったんだね?」
ただ、興味深い。そんな目だった。エレベーターで感じたのと同じ、ぞくりとした感覚がふたたび背中を駆け上がった。
「続けるよ。痛かったり、不快だったりしたら言いなさい」
伯父の検分とやらは、ひどく丁寧な作業だった。全身をくまなくさわられた。背中、わき腹、膝の裏、脚のあいだ。体勢を変えさせられ、きわどい部分もなぞられた。性器に触れられた時だけ驚いてからだが逃げたが、そのことを責められるでもなくごめんねと微笑まれて、それが伯父を傷つけてしまったように思われて、美鶴はかえっていたたまれない気持ちになった。
ひと通り触れたあと、今度は入念にもう一度。瞳の色加減、背骨のライン、関節のくぼみ、おなかの皮膚のやわらかさ、美鶴をかたちづくるパーツのひとつひとつを正確に把握するように、あたたかい手と指は、からだの上を丁寧に滑っていった。美鶴は、校外学習で見学した精密機械の工場を思い出した。自分がベルトコンベアの上を流れて次々と点検を受ける、出荷される直前の何かになった気がした。
口をひらいて、と言われたのでそうしたら、いきなり人差し指を挿れられて驚いた。小さくむせて呻いたが、相手は気に留める様子もない。奥歯から一本一本、数とかたちを確かめるように伯父の指がなぞるのを、口腔の神経がきめこまかに伝えた。それがあんまり生々しくて、よくわからない高ぶりに顔があつくなった。他人の指は、少ししょっぱいような苦いような、はっきりしない味がした。
伯父は美鶴の生え替わって間もない、まだ短い側切歯が気に入ったようで、そこを何度も指の腹で押した。
「これは、いつ生えた歯?ここだけ短いね」
指を抜いてもらえないままだったので、仕方なく美鶴は左手を持ち上げて、ちょきの形をつくった。
「2ヶ月まえ?」
「んっ」
頷くわけにもいかないので、ぱちぱちと瞬きして、そうだと伝えれば、伯父は納得して、今度は左の側切歯に触れた。こちらはまだ乳歯のままだ。だいぶ、ぐらついている。こちらも同様に気に入った様子で、ぐらつくそれを何度も指の腹で押したり戻したりしていたが、やがて好奇心を抑えられない子供のような顔をして言った。
「美鶴くん。この歯、あとどれくらいで抜けるだろう」
「抜ける時が来たら、私に抜かせてもらえるだろうか」
どうしてそんな事がしたいんだろう、へんなの、やっぱり変わり者だと思ったが、とにかく美鶴はまばたきで頷いた。何しろ、さっさと問答を済ませてこれに飽きてくれないと困る。飲み込めなかった唾液が口端をつたって、こぼれて、美鶴の首まで伝っていて、むずむずと落ち着かなかなかったのだ。
「ありがとう」
にこにこ笑って礼を言われたが、なんだかわけがわからなかった。
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